| タイトル | 農のもつ福祉、文化、社会維持機能に関する研究 |
|---|---|
| 担当機関 | 地域振興政策部長 |
| 研究期間 | 2003~2005 |
| 研究担当者 | |
| 発行年度 | 2003 |
| 背景・ねらい | 本調査研究は、山形県(旧)長瀞村(現・東根市)の戦後青年演劇運動を取り上げ、演劇が如何なる思想のもとに取り組まれ、青年団等の活動とどのように関連して展開したかをたどることによって、農的文化が農村社会維持に果たす役割を明らかにする。 農民(大衆)文化運動は、記録が断片的にしか残っていない場合が多い。そのため、当事者達からの詳細な聞き書きを主データとし、記録資料でそれを補足する形で、当該運動の展開過程を掘り起こし、その意味を解釈するという、研究アプローチを採用する。 |
| 成果の内容・特徴 | 戦後長瀞村に起きた農村演劇という社会文化運動は、戦争で逼塞した文化への渇望と戦後民主化運動とが入り交じる機運のなかで発生した。ただ、その源泉は大正デモクラシー期の文化運動に端を発する2つの文化運動の潮流、1つは、宮澤賢治の訓導を受けた松田甚次郎が新庄で実践した農村更正運動、2つは、戦前に長瀞村で実践した国分一太郎の生活綴り方運動の影響を受けた教え子たちが戦後に長瀞村で偶然に出会わし、青年サークル(同好会)を結成したのが発端である。 当初、演劇は地域に根強く残る社会遺制の払拭と米軍基地反対闘争による民主化・近代化をめざす生活記録(サークル)運動の1活動ジャンルとして発展した。だが、当該サークルは時局に応じた政治イデオロギー(左翼)に影響を受けて分解し、かわって青年団が演劇を取り込むようになった。青年団は、演劇のもつ啓蒙性と仲間づくりの手だてとしての有効性に着目したのである。演劇活動の黄金期は生活記録(綴り方)運動とその余波で青年団活動がピークを迎えた1953~55年であった。だが、この生活記録(綴り方)運動とそれに呼応した青年団活動は1950年後半になると急速に終息する。半封建的な遺制払拭による近代化を志向した生活記録(綴り方)運動は、経済成長により近代化が実感され始めるのに反比例して、活動動機を減退させたからである。 そこで、演劇愛好者が1950年代末に演劇サークルを結成して、啓蒙性の強い青年団演劇にかわってより芸術性を志向した演劇上演をめざした。だが、このサークルもまた60年安保という政治的激動と生活の近代化の波に呑まれて、60年代初めに消滅する。 さて、青年団は、高度経済成長の余波を受けて団員減少に歯止めがかからず、存亡の危機に瀕するようになった。そこで、その梃子入れのために、青年団は、中断した演劇を60年代後半に復活させて、一時期団員数を取り戻し、そのなかで農民自らの脚本による創作演劇が花開いた。だが、高度経済成長期から経済成熟期にかけて青年の農業・青年団離れがさらに進んで、ついに青年団が解散し、演劇もまた担い手を失い消滅せざるをえなかったのである。青年団演劇消滅後の1980年代以降、当地における演劇活動は、演劇志向の強いセミプロによるもの、公民館の社会教育活動として行われるもの、イベント志向型のものと、性格を異にする同好会がそれぞれのやり方でその存続を模索している現状にある(第1図参照)。 以上の演劇活動の盛衰を規定する社会経済的背景として組織化問題と経済問題がある。演劇活動には担い手と資金が必要だからである。劇団員を確保し、また観客を集めて経済採算的に成り立たさなければならない。そのため、演劇活動の担い手は、時代情勢の変化のなかで経費などの負担をめぐり、サークルと青年団との交替劇が2回繰り返された。サークルは同好者の結集に適するが、政治イデオロギー(左翼)に左右されやすく、また規模も小さいので財政不安定という弱点があった。青年団は地域ぐるみ組織のため演劇への結集力は劣ったが、規模が大きいので財政的に安定した。だが、その青年団も、1970年代中葉以降になると、農業の不振、或いは農外や都市へ就職する青年の青年団離れが加速し、演劇を担う団員の確保が難しくなった。長瀞青年団は1978年に解散し、それにともなって青年団演劇も担い手を失い消滅したのである。 長瀞村での農村演劇運動の思想と社会運動の特徴は、次のようである。 近代以降の芸術は、市民階級による人間解放の理念をベースにしながらも、その経済的支えを都市の資本家階級に頼ってきた。その制約が芸術にもたらす偏向を批判したのが、宮澤賢治の農民芸術論であった。近代科学の偏重により失われた宗教心と自然、専門分化により都市在住の職業芸術家に独占された芸術、を再び地域民衆の手に取り戻そうというのである。商業主義と芸術至上主義により生命力を枯渇させた近代芸術に対して、自然に育まれた地域民衆の生活が吹き込む生命力に、賢治は新たな芸術の創造を期待したのである。 演劇を上演するには脚本だけでなく、演技者や舞台装置スタッフなどの組織という受け皿が必要であった。戦前期においてその受け皿となったのが松田の農村更生運動であり、戦後は国分らを起源とした生活記録運動であった。賢治の思想はそれら社会文化運動と結合することによって、推進母体を得て開花したのである。 演劇は劇作者と演技スタッフと観客との共同作業という性格があって思想の共有や仲間同士の絆を強める反面、それは資金と労力負担を担い手に強いた。この思想と経済との相克のなかで、演劇は担い手組織の交替を繰り返した、と言える。 |
| 図表1 | ![]() |
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